椋神社由緒
創立
人皇十二代景行天皇の御代
日本武尊東夷征伐のとき「日本武尊当地赤柴にて道に迷われた折、お持ちになった鉾の先から一条の光が走り、その方向に大きな椋の木が立ち、根方の泉近くに猿田彦大神が立たれ、赤井坂に導かれる。これにより大勝を得られたので、尊は喜ばれて井泉の辺に鉾を神体として猿田彦大神を祀り給うた。これを当社の創めとする。鉾より光の出たところを光明場(あかしば)という。」
※井泉の辺は伊久良と言い、のちに井椋と呼ばれ、現在の井椋塚である。猿田彦命と天鈿女命が祀られている。
【現在の井椋塚】

和銅3年(710)
芦田宿禰守孫始めて社殿を造営する
定観13年(871)
従五位上を賜る
延喜年間(901~)
延喜式神名帳に秩父郡二座、秩父神社・椋神社(国弊小社)と誌される
天正3年(1575)
戦国時代の兵火を受け消失した社殿を。鉢形城主北条氏邦によって再建された。村民大いに祝して大祭を挙行する。祭具木魚二本、氏邦着用の筋兜を神社に奉納する。(現存)
慶長9年(1604)
境内の欅の大木を、江戸城天守閣の用材として、三十六本を伐採し吉田川より河流しにて江戸へ送る。椋神社神主、江戸神田明神の鍵番を徳川家康より仰せつかる。
明治6年(1873)
椋神社、村社に列せられる。
明治9年(1876)
椋神社境内に校舎建築、東・西吉田・阿熊学校を統合し。椋宮学校とする。
明治15年(1882)
椋神社、県社に昇格する。
明治17年(1884)
椋神社に困民党集結し、秩父事件勃発する。